日記とか

日記とか読んだ本の感想とかをメモします。

2019/09/28 〜

最近頭に血が昇って意識が浮遊するやつが頻発していたのですが、今日一定時間発生し続けていて、概ね原因が分かりました。恐らくですが、前述の通り脳に血が集まりすぎてなにかなっているのだと思います。脈拍と同じ間隔で頭痛が発生した辺りから推測しています。家にいる時よりも、自転車を漕いでいたり、早く歩いていたりする場合に発生するので、概ね正解だと思われます。同じ事象が発生される方は参考にして頂けると幸いです。

それはそれとして、頭に血がのぼるやつなのですが、いい加減生活が辛くて、辛くて、辛いのですが、何が辛いのか、あまりにも一過性のものすぎてよくわかりません。バカなのか。

今この瞬間の状況としては、家内に悩みをぶつけ(喚き散らしたという表現が一番近い)た後に、わけがわからなくなり、財布とノートPCを持って家を飛び出した事は分かっていて、30分くらいそこら辺を頭に血を上らせながら歩いて、朝までやっていたはずのチェーン居酒屋に居る、ということが分かっています。キュウリが美味しいです。

何が辛いのかというと、まぁ、全部なんですが、全部辛いという状況が辛く、家内はクソ忙しく障害者に割くリソースが無いので、というかそのリソースは子供に割いて欲しいので、この辛いという状況は自分一人で打開しないといけないのですが、誰も助けてくれない、誰も心配してくれない、誰も手を差し伸べてくれない、という事実がより一層の辛みを重ねています。もし仮に手が差し伸べられたとしても、現状、確実に受け入れる事が出来ない、突っぱねてしまうことは分かっていて、そうすると親切な人を害することになってしまうので、それは避けたい。となると、やはり一人でなんとかするしかない、ということが分かります。梅酒ソーダ美味しい。

とにかく自分が悪い、少なくとも良くない、不出来な父親、人間、夫であることは明らかな事実なので、それは良くて、避けるべきなのは二次災害的に、子供であったり、周りの人を傷付ける事はやってはいけないということが過去の別居やDV行為で明らかになっているので、一旦周りと距離を取った方が良い、ここまでは良い、実行出来ている、友人と呼べる関係の人との予定は向こう1ヶ月は白紙にしたし、能動的に接触出来ないようにもした。子供と家内とも接する時間を可能な限り少なくして、俺の存在が恐怖になる時間を減らせば良い。お通しのポテトサラダも美味しかった。

そうなると、果たしてこいつは存在している意義があるのか、という話に当然なって、現状価値は無いことになると思うんですね、人間が生きると酸素や食品などの生命維持的な資源と、家庭的には資金的な資源が消費されていき、社会は俺を保障する為に税金や福祉が使われます。これが死ねば無くなると思うのですが、この辺は刑務所のコスト問題などと同じで、まぁ諸説はあるのですが、明日は我が身があるということと、発狂した人間を隔離、あるいは正常化、抑止して、正常に社会を回す阻害をさせない必要があるから、福祉で生かしていると思います。無敵の人ってやつですね、無敵というのはマリオのスターと違って、死んでいても生きていても同じだからどうなっても良いから他人に外を及ぼすことが出来る、ということと解釈しています。生と死を等価値(これが言いたかっただけです)にすることによって無敵にして、死の価値を宗教的にあげて自爆テロをしたり、生の価値を下げて車で突っ込んだりします。つまりどの人間も無敵になれるので、その事に気付くかどうかということです。キュウリ食べ終わった。

残念ながら私は無敵であることにある程度気付いていて、仮にここで死んでも家族はすぐ死なないし、まぁ事件を起こしてしまうとこの街で生きにくくなるのでそれは避けたほうが良いとは思いますが、なんか蒸発したりすれば、お父さん居ないね、でもそういうこともあるよね、という事になったり、家内も色々あるでしょうが、まぁ、死んだ私には関係がない、ここまでが無敵なのですが、まだ理性で多少制御出来ていて、それでも葬式とか面倒だろうし、まぁ、面倒な事が多いだろうな、という気持ちがあるので、無敵になれていない感じです。

生きていたほうが良い、という消極的な理由でやっているとその後にやっていけなくなるので、早いうちに、積極的に生きたいのですが、この、生を肯定するのが難しくて、何も出来ないとか、自信とかがないと、プラスしていくことが出来なくなります。そうすると、徐々に無敵に寄っていくので、最終的に死に至ります。上手く伝わってくれると嬉しいのですが。

まぁ、なんだかよくわからないので終わりにしますが、最近ふと思ったのは、今結婚式をやったらこの人やあの人は来てくれるだろうな、というのは今までの人生で幸いなことに絶えず、多分絶えずありましたが、今日明日、ならまだわからないけれども、十年後に死んで葬式に来てくれる人は、儀式というか習慣的な行いに従ってくれるような人だったり、来てくれるような人って、どれだけ居るかなぁっていう事です。分かんねぇ、俺は行く人結構いるけど、なんか逆の10年後ってどうかなって思うと、正直分からない、わかるわけがないですね、他の人間の気持ちは、分からないのですが、ふーんそっか、そうなんだ、で終わってしまうような、そんな感じなんじゃないかなって思って、感じになりました、ということでした。多分こういうところが自信とか自己肯定感の無さの基準値なのかなって思います。なので僕が死んだときは葬式とかやらずに、まぁTwitterとかSNSで周知だけしていただいて、葬式はしないでほしいなって思いました。例によって答え合わせをしたくないので、場ごと消す、ってやつです。ブログって遺書として機能するのでしょうか。この確認が数十年後することになるのが、一番良いなと、そうしたいな、という結びにして終わります。脈拍とか頭が全然落ち着かない、お酒のせいだと良いのだけれど。